ログイン昨夜まで、ここで彼に抱かれていた。
この広いベッドの半分は彼が占めていて、私は彼の腕の中に閉じ込められるようにして眠っていた。 狭くて、苦しくて、熱くて。 でも、そこが世界で一番安全な場所だった。 シーツの上に、ぽつんと座り込む。 広い。 あまりにも、広すぎる。 手を伸ばしても、そこにあるのは冷え切ったリネンだけ。 誰もいない。 誰も私を叱らない。 誰も私を抱きしめない。「……社長……」 呼びかけても、返事はない。 手の中のスマホを握りしめる。 画面は真っ暗なままだ。 日本とニューヨークの時差は十三時間。今頃、彼は機上の人だろうか。それとも、もう到着して、戦場のようなビジネスの世界に身を投じているのだろうか。 私のことなんて、忘れているかもしれない。 あの人は、仕事の鬼だ。私という玩具を檻に入れて鍵をかけたことで満足して、少し離れたベンチで、陽向が電話をしていた。 「うん。今日は寄れると思う。……分かった。お父さんにも、無理すんなって言っといて」 話し終えてからも、しばらく画面を見ている。莉子は声をかけずにいたが、振り向いた陽向と目が合ってしまった。 「何」 「今度は、私もお店に行きたいなと思って」 陽向はスマートフォンをポケットへしまった。 「母さんが行ったら、結月さん、緊張するよ」 「私だってするよ」 その返事に、陽向の顔が緩んだ。何か言いかけたが、照れくさくなったらしく、ベンチの上の荷物を取るふりをした。 隣では、結衣がイヤホンを片方外していた。画面に映る小さなステージで、レイが歌っている。 曲が終わっても、結衣はすぐには次の映像を選ばなかった。知らない客たちの拍手が、漏れてくる。 「その人?」 莉子が尋ねると、結衣は画面を伏せかけ、途中で手を止めた。 「……うん」 車椅子のそばにしゃがみ、母にも見えるように持ち直す。莉子は少し顔を近づけた。 「聞かせて」 結衣はイヤホンを外した。音量を何度か確かめてから、曲の初めに戻す。 細い伴奏が二人の間に流れた。莉子は膝に手を置いて聞いていたが、途中で結衣の目元が濡れていることに気づき、動かせる方の手を娘の肘に添えた。 結衣は袖で頬を拭った。曲は止めなかった。 征也が胸のポケットからハンカチを出す。差し出された結衣は、小さく礼を言って受け取った。 中庭にはほかにも人がいた。植え込みの前で話す老夫婦、看護師とゆっくり歩く人。陽向がベンチから立ち上がり、四人分の荷物を片方の肩へかけた。 莉子は葉の間に見える空を眺めた。 今日、見せてもらった顔だけでも、知らなかったことがいくつもある。結月という名前を口にする陽向も、泣きながら歌を聞く結衣も、彼女の記憶の中の幼い子供とは違っていた。 膝に置いた手へ目を落とす。二人の髪を結い、朝の台所で鍋を持っていた頃より、指が細くなっている。 隣で征也が身じろぎした。その手が近づき、ブランケットの端に置かれる。 莉子は自分から指を伸ばした。届くまで待っていた征也が、掌を上に向ける。 触れた途端、彼の指がわずかに震えた。 「もう少ししたら、戻ろうか」 莉子が言うと、征也は頷いた。手を握ったまま、彼も枝先へ目をやった。
翌朝、征也は莉子のベッドのそばで、まだ口にしていなかった言葉を探していた。 莉子は目を開けている。視線が合うたび、話しかけてよいものか迷った。眠っていた頃にはあれほど一方的に喋れたのに、今は何から言えばいいのか分からない。 「莉子。俺は、お前に……」 指を握り直そうとして、やめた。 「謝らなければならない」 莉子は征也の顔を見ていた。続きを待っているのだと分かるまでに、少しかかった。 「陽向と結衣にも。話すことが、山ほどある」 窓際で結衣がハンカチを畳む手を止めた。陽向は俯いたまま、椅子に座っている。 莉子の視線が二人へ向かい、征也のところへ戻ってきた。 「ゆっくり、聞かせて」 征也は頷いた。 「途中で、怖い顔しないでね」 昔も、そんなふうに言われたことがあった。返事より先に反論を考え、莉子の顔を曇らせたことまで思い出した。 「……気をつける」 陽向が短く息を漏らした。笑いかけてやめたような音だった。征也はそちらを見たが、何も言わず、莉子へ顔を戻した。 莉子が彼の頬を見ている。征也が身を屈めると、枕元の指が動いたので、その手を下から支えた。指先が頬に触れる。 「ひどい顔」 「……眠れなかったんだ」 声の終わりが震えた。莉子の口元が、ほんの少しほころぶ。 「おかえり、私だけの魔王」 征也は俯いた。頬に添えられた指を濡らさないようにしたかったが、間に合わなかった。 莉子の手を支えたまま、しばらく顔を上げられずにいた。誰も急かさなかった。 やがて看護師が入ってきて、休む時間だと静かに告げた。征也は指先を拭い、莉子の腕を楽な位置へ戻した。 これからの話は、まだほとんどできていなかった。 莉子が眠りに入るのを見届けてから、陽向が椅子を引いた。立ち去るのかと思ったが、ベッドの方へ少し寄せただけだった。◇ 数週間後、莉子は車椅子で病院の中庭へ出た。 桜はほとんど散っていた。枝先の若葉が重なり合い、風が通るたび、裏側の淡い色を見せる。 長く座っていると疲れが出た。膝のブランケットを直そうとしても、指が思うように動かない日があった。それでも今日は、外へ出たいと自分から言った。 征也は日陰を避けて車椅子を止めた。莉子が見上げる先を確かめ、背後へ回る。 「寒くないか」 「さっきも聞いたよ」
莉子が腕を動かそうとした。 肘がシーツを擦り、それ以上は上がらない。陽向はその手を見つめ、莉子の口元に浮かびかけた謝罪に気づくと、ベッドのそばへ膝をついた。 「いいよ。俺が、こっち来るから」 看護師が寝具を直すのを待ち、身を屈める。莉子の手を髪の上へそっと乗せると、指先が一度だけ動いた。 陽向は目を閉じた。 もっと強く撫でてほしかった。昔のように、髪が乱れるくらいに。それでも頭を上げたら、このわずかな重みまでなくなりそうで、動けなかった。 結衣も傍らにしゃがみ込んでいた。ベッドの縁に頬を寄せ、母の袖を摘まんでいる。 「ママ、私……」 言いかけて、息が詰まった。 莉子が娘を見た。結衣は袖を握る指を緩めようとしたが、うまく離せなかった。 「聞いてほしいこと、いっぱいある」 莉子は頷いた。結衣の手に指を添え、それを見ていた陽向が、自分の顔を袖で拭いた。 看護師に声をかけられ、二人は少しずつ身体を離した。莉子は目を閉じたが、その手にはまだ結衣の指がかかっていた。◇ しばらくして、莉子がまた目を開けた時も、三人はそばにいた。 結衣は椅子に座り、濡れたハンカチを膝に広げていた。陽向は窓辺に立っていたが、莉子の視線に気づくと、すぐ戻ってきた。 「お弁当……」 小さな声に、征也が顔を近づけた。 「匂いがしたの。卵焼きかな」 陽向と結衣が目を見合わせた。 病室で開いた弁当の蓋。征也が紙コップへ注いだほうじ茶。あの日、母の前で笑ってしまってから、陽向は何度かそのことを思い返していた。 「ここで食べたんだよ。三人で」 陽向が答えると、莉子の目が細くなった。 「にぎやかだった」 「結衣が、俺の唐揚げまで食うから」 結衣が顔を上げた。 「一個だけでしょ」 言い返した声がいつもどおりに出て、自分で驚いたように口元を押さえる。莉子は二人を見ながら、わずかに笑っていた。 征也は膝の上のティッシュを丸めた。陽向が差し出したごみ袋へ落とすと、莉子の目がまた彼へ向いた。 「女の人も……来てくれた?」 陽向が動きを止めた。 「知らない声。優しい声が、した気がする」 誰の声だったのか、莉子にも確かではないらしかった。陽向はベッドへ寄り、母の手元に置かれたハンカチを少しずらした。 「結月さんかな。前に、一
「呼びかけに反応が見られます。意識が戻り始めている可能性がありますが、もう少し様子を見ましょう」 医師の話は続いていた。征也は頷き、聞き逃さないように顔を上げていたが、莉子が目を閉じるたび、そちらを見ずにいられなかった。 今度は、また開いた。 処置の間、陽向も結衣も黙って待っていた。看護師が口元の器具を整え、短い時間なら、と征也に場所を譲る。 莉子は酸素マスク越しに何か言おうとしていた。 「無理に話さなくていい」 征也は椅子へ腰を下ろした。さっきまでいた場所なのに、ベッドとの距離が分からず、膝をぶつけた。 細い息に交じって、声が聞こえた。 「……泣かないで」 征也は顔を上げた。 「征也くん」 返事をしようとして、息を吸った。それきり声が出なかった。握り直した莉子の手に額をつけ、何度も頷く。 誰かがティッシュを差し出した。受け取ることもできずにいると、結衣が黙って膝の上へ置いてくれた。 「莉子……」 ようやく名前を呼ぶと、莉子の口元がわずかに緩んだ。征也は濡れた頬を拭いたが、次の一枚を取る間にも涙が落ちた。 「声、聞こえてた」 莉子の言葉はそこで切れた。征也は身を寄せたまま待つ。マスクが呼吸に曇り、また透き通る。 「全部じゃ……ないけど」 「もういい。後で聞く」 そう言いながら、手だけは離せなかった。 莉子は少し休んでから、彼を見た。 「怒ってるみたいな声、したの」 征也の指が止まった。 「でも……そばにいるって、分かった」 謝らなければならないことが、いくつも浮かんだ。今ここで言えば、彼女はそれさえ聞こうとするだろう。征也は口を閉じ、莉子の手の甲に残っていた涙を拭った。 莉子の視線が、その肩越しに動いた。 陽向と結衣が立っていた。近づきたくて、けれど近づくのが怖いように、二人とも足を止めている。 莉子はしばらく陽向の顔を見つめた。次に結衣へ目を向け、また陽向へ戻る。 征也には、その戸惑いが分かった。自分の横に立つ息子は、もう子供の背丈ではない。 「陽向だ。それと、結衣」 莉子の眉がかすかに寄った。 「ひな……た?」 陽向は頷いた。唇を動かしたが、声になるまでに時間がかかった。 「うん。俺だよ」 結衣がベッドへ一歩近づく。莉子は娘の顔を下から見上げていた。
莉子の指が、掌の内側を押した。 征也は顔を伏せたまま、その感触が消えるのを待っていた。長く手を握っていれば、自分の指の動きを取り違えることもある。つい先ほども、開いたはずの瞳は再び閉じてしまった。 もう一度名前を呼べば、また期待してしまう。 額に触れている莉子の手は、涙で湿っていた。征也がそれを拭おうとした時、細い指が彼の親指に触れた。 今度は、動かずにいた。 指先が皮膚を擦る。爪の縁まで分かる、ごく弱い感触だった。 征也はゆっくり顔を上げた。 朝の光が、枕に落ちている。莉子の睫毛が震え、まぶたの下に細く光が入った。眩しいのか、一度閉じかけて、それでもまた開く。 「……莉子」 扉の取っ手が小さく鳴った。陽向が一歩入ってきたところで足を止め、結衣もその後ろに立っていた。 莉子の目は、まだどこも見ていないようだった。天井の明かりを避けるように動き、征也の顔のあたりで止まる。彼が少し身を寄せると、その瞳も動いた。 征也は、椅子から滑り落ちるように膝をついた。 「俺が、分かるか」 言った途端、答えを急がせたくなくなった。唇を結び、莉子の顔を見上げる。 十二年前と同じ色の瞳に、自分が映っていた。髪に白いものが交じり、頬も目元も濡れた、見慣れない男の顔だった。 莉子の唇が開いた。息が漏れただけで、声は聞き取れない。 征也は耳を近づけかけ、枕元の呼び出しボタンに気づいた。片手を伸ばすと、握っていた莉子の指がずれたので、慌てて持ち直す。 「ここにいる。看護師を呼ぶだけだ」 誰に言い聞かせているのか、自分でも分からなかった。ボタンを押す指が滑り、二度目でようやく押せた。 駆けつけた看護師が莉子の顔を覗き込み、すぐに廊下へ声をかけた。陽向が結衣の肩を引いて道を空ける。医師が入ってきて、征也は立つように促されたが、膝に力が入らなかった。 「親父、こっち」 陽向が肘を支えた。征也は息子の腕を借りて立ち、ベッドから半歩退いた。 医師が莉子の名前を呼んでいる。瞳に小さな明かりが当たり、看護師が手元の機器を確かめる。聞き慣れているはずの電子音が、ひどく大きかった。 手を離すように言われ、征也は莉子の指をシーツに置いた。 その手が、もう一度こちらへ動かないかと見てしまう。 陽向は征也の肘から手を離さずにい
「だから……一度でいい」 征也の喉から、子供のような息が漏れた。 「一度でいいから、俺の名前を呼んでくれ」 その瞬間、病室の扉の外で、小さな衣擦れの音がした。 征也は気づかなかった。 扉は、完全には閉まっていなかった。看護師が出入りした時に、ほんの指一本分だけ隙間が残っていたのだ。 その向こうで、陽向と結衣が立ち尽くしていた。 陽向は、握っていたスマートフォンの電源を落とすことも忘れていた。画面には父からの短いメッセージが残っている。 ――莉子に変化があった。まだ確定ではない。来られるなら来い。 命令のようでいて、初めて共有された弱さだった。 陽向は、扉の隙間から見える父の背中を見つめた。 かつては壁のように巨大だと思っていた背中が、今はベッドの脇で折れ曲がっている。莉子の手に縋りつき、顔を上げることもできず、何度も、何度も謝っている。 陽向の胸に、長く張りついていた硬いものが、ほんの少し形を変えた。 怒りは消えない。けれど、目の前の父は、初めて弱い人間の顔をしていた。 そう分かったからといって、陽向の中の怒りがすべて消えるわけではなかった。十二年の孤独は、たった一夜の懺悔で帳消しにできるほど軽くない。 それでも、父が怪物ではなく、怪物のふりをしなければ立っていられなかった人間だったのだと、初めて思った。 隣で、結衣が両手で口元を覆っている。 涙が、指の隙間から零れていた。 理想の父。完璧な父。どんな願いも叶えてくれる、強くて冷たい魔王。 その幻が、音もなく崩れていく。 崩れた下にいたのは、莉子の名を呼ぶことしかできない、不器用すぎる夫だった。 結衣は胸の奥を押さえた。 レイに拒まれた夜の痛みが、遠い場所で微かに疼く。 あの時の自分も、相手を見ているつもりで、本当は自分の寂しさばかり見ていたのかもしれない。 唇を噛むと、涙の味がした。 病室の中で、征也はまだ莉子の手を握っていた。 「戻ってこい、莉子」 声は、もう命令ではなかった。 「俺のためじゃなくていい。陽向のためでも、結衣のためでもいい。お前が戻りたいと思う場所へ戻ってこい。……俺は、そこにいる。今度は、お前を閉じ込めるためじゃない。お前が歩く時、転ばないように、隣で手を出すためにいる」 言い終えると、







